心に残るもの提供しないと 2/3(本田治幸さん)


天草出身の先輩方にランチをご馳走になりながら
成功の秘訣を聞くコーナー
『先輩!ゴチになります!!』
第1回目はこの方にお話をお伺いしました。
interview-200712-honda

株式会社リブフーズ 代表取締役 本田治幸さん(姫戸町出身)

聞き手 天草元気プロジェクト 松村・青木
取材日 2007/12/6
取材場所 ゴローズカフェ(江戸川区葛西)

本田さんは姫戸町出身で高校卒業後に上京。
様々な営業経験を経て、
現在は無農薬の果実の販売を行っていらっしゃいます。
現在の状況なども踏まえていろいろお聞きしました。

心に残るもの提供しないと 1/3(本田治幸さん)
心に残るもの提供しないと 2/3(本田治幸さん)
心に残るもの提供しない と3/3(本田治幸さん)

「今の仕事に繋がるきっかけは、『かぼす』と『ぎっくり腰』」

本田 姫戸の家から熊本商業松島分校(現 松島商業)にバス通学だったんだ 産交バスで(笑)

青木 あの鼻が出っ張ったバスでしょう。 でも俺たちの時は本渡、熊本間は今の形になってた よ。裏天草のバスとは格差があったな メインとローカルの差があったよな。

青木 五橋がかかった時はどがんしとらいたですか?

本田 小学校4年3年だったかな。

松村 天草五橋を作るためにがんばった政治家がいらしゃるんですよね。

青木 森慈秀さんだったですかね

本田 この人は、回りには「何ば寝とぼけっとか」といわれても「橋を架けないと天草の未来は ない」とがんばった人

青木 湯島の人で あそこは10年に一人天才が出るとのことで、天高から東大が出る時は湯島 から出るらしく、森慈秀も天才の中の一人だったらしいよ。

本田 さっきの話だけど クロレラが一番売れたのが湯島、郵便局で売ったとき始めは誰も話を 聞いてくれないが 局長が買ったら他の人にも売れるのが早かった。

松村 それは作戦ですか?

本田 そうね 誰か買ってくれそうな人を初め攻める。一人買ってくれると俺も俺もってなって 売りやすくなる。

青木 昔って、結構訪問販売っていましたよね。似たやつでいうとリヤカーで売るやつがありま したよね

本田 魚とか豆腐とかやろ 俺らの時代はまだリヤカーでしたが 松村君の時代は違うでしょう

松村 そうですね、軽トラとかだったですね。

青木 本渡は回りやすかったのか、まだ、リヤカーだったですね。なくなっていく商売の一つ だったのかなー

本田 話は変わるけど松村君、松島、阿村は金持ちが多いんだよね?

松村 家はでかいですね。

本田 でかいよなー

松村 海運業ですから。でも話がなかなか今の仕事につながってこないですね(笑)

本田 そうだね(笑)証券会社と子供服のセールスをやり、2人目の子供が生まれた時に”自分 の道ではないな 今、独立しないと一生できなくなる”と感じ、会社を辞め退職金、株等でため た資金をもとに独立をしました。大分のかぼすの話を友人から受け、かぼすジュース200ケー スを妻の実家の倉庫に送らせ売り始めました。もちろん個人では数は知れたがもんだから 居酒 屋、酒販店とか周りケース売り、次にかぼす酢を築地で売り、そのうち、酎ハイが流行だし酒屋 で売れ始め10件回れば8件買ってくれた。そのうち、自然食品の店までも取り扱いをしてく れ、自然食品店を中心にしたんだけど、その時ぎっくり腰をやって3ヶ月家にいました。原因は 睡眠不足。僕が子守りで妻がパートタイム ゆっくり考える時間があってよかった。

松村 それは、いい経験でしたね。

本田 そのときに治ったときに何をするか考えました。農薬なしで果実栽培をやっているやつを 販売して行こうと考え、そういう農家を見つけては交渉に行きました。

松村 その時期とは、おいつぐらいですか?

本田 それが35歳ぐらい 自然食品を中心に回ったのは36歳ぐらい。

松村 ちょうど僕らの年代ですね